野の花の記 白馬岳   2016年8月4~6日        サイトトップへもどる

プロローグ

 老若を問わず、山で楽しみを享受できる条件は、「好天」につきる。70過ぎて安全が

第一となると天候だし、綺麗な花や、取り巻く山をゆっくり観測できるのも天気だ。

 その好天を待ちに待たされた。予約変更4回。なかなか天気が安定した夏にならない。

冷気が列島の上に張り出して居すわる。これが雷のもと、山なら怖い。やむなくとはいえ

待ちくたびれた。でも老人になってから辛抱強くなったとおもう。
今回も同級生に、コンビになってもらい白馬岳をあるいた。

 暑さは立っていてもぽたぽたと汗が落ちるほど。「ゆっくりでも、歩いてゆけば、

そこそこで目的地には着く」、とおもっているが、この願望は今回もかなえてもらった。
今回のテーマは「どうしたら森羅万象をこころ=脳に書き込めるか」であった。
帰宅してからしばらく経って、眼を閉じると、
 「短い夏の山の自然の営み」がこころに書き込まれていた!


  白馬の頂上付近のミヤマキンポウゲ よくみれば2匹の蜂がせっせと蜜をあつめる

8/4(木)

◇松本から白馬尻の小屋へ

 あずさの予約が取れない。始発新宿で満席とのこと。甲府でやっと座る。松本で乗り換え、

久しぶりに大糸線に乗る。青木湖の景色などに「お久しぶり」とつぶやく。

 この車内で偶然同じ車両の同年配の男女4人組のパーティとは、白馬から蓮華温泉まで

同じコースだった。

 とにかくいまの日本の登山は庶民の遊びで、中でもおばちゃんが元気印だ。
結構きつい山でも、ソロで来るおばあちゃんの度胸には感心する。

悪天候になったら大丈夫なのかなあ・・・・較べれば我々は小心者だ。それでいいのだ!

バス接続もスムースで、猿倉から歩き、オンタイムで今宵の白馬尻の小屋につく。

 

 食前の時間は、小屋の前のベンチで生ビールを楽しむ。16時でもう寒いくらいだ。

時々ガスがでて、雪渓は上部の岩峯が見えたり隠れたり・・・・
まだ気象台の予報は「曇りと雨と雷」で、そのなかに「晴れ」の文字がない。

 ガスのかかった夕暮れの迫るの雪渓の景色は山水画だ。

テキスト(文字)では誰でもこの景色は表現はできない。
それは受け取る人毎に受容体(=脳にあるデータ)が違うからだ。

 山水画というのは「幽玄の」世界を表現するものが多いし、カタチではなく、脳が感じるモノだ。

その時にワタシは、昼の車中で聞いたCDで、玄侑宗久さんの講演を思い出していた。
・・・・前頭葉の大脳皮質による「因果応報的思考に支配されない般若の知恵」がテーマだった。
「般若(≒知恵)」とは、禅で、自身の実態、真実の自我を見通す能力を言う。
(タイトルを聞いただけで難しいが、「これを体得するのは空=涅槃に至るより難しい」とある)
 脳学者の養老さんも「イメージ」と「音」は「テキスト文字」と違う別の神経回路を使うと
言っていたことも思いだした。

 つまり自分が、外からの事象で何かを感ずれば、間接的に、自分の実体が判ると言うことなのだろう。
反射波で対象を捕捉するレーダのような原理だろう。

◇大雪渓の上を 霧か雲が降りてくる

 午後の陽射しで暖められた湿り気の多い空気が、雪渓に触れると冷えて重くなり、雪渓に沿って
下るように流れ始めるのだ。


 

 

    梅雨(つゆ)明けむ 大雪渓を 霧降(おり)る

      晴天祈る 明日の岳(やま)旅


8/5(金)

◇夜中の空は星だらけ
 
日付が変わって夜中3時頃目が覚めて、屋外の建て屋にあるトイレへいく。

ふと空を見ると星座がきれいに見える。「あれはサソリ座だ」と自分でも判る数少ない星座だ。
子供のころの夏休みの自由研究はいつも星座だったからだ。
ひときわ明るい一等星のアンタレスの名前も覚えていた(むこうがワタシを覚えていたかは?)

 後になって同行した級友に聞くと、彼も見たという。
しかも明るく見えたのはペルセウス星団という。(彼は天文少年だったのか博識だね・・・)


(星空がよく見えて)「今日は天気だ!」間違っているのは現場にいない気象台予報官さんだ。

 

         ニコン株式会社のホームページ 今月の星座から


      南天の サソリの胸に アンタレス

        半世紀(むかし)の名前 出ているヒトよ 


◇大雪渓を歩き出す

 五時からの朝飯も結構旨い。予定より早く歩きだせた。大雪渓は例年より大分溶けて後退しており、
目印のケルンから30分以上も秋道を歩いてから、簡易アイゼンを着ける。

簡易アイゼンはつま先部分の刃がないので、前傾すると滑る。
本格アイゼン(安定して歩いている人はまずそれだ)は2割くらいの人だ。
持ち運びはすこしお荷物だが歩くのは楽だ。
雪渓が短いからまあ不要か、と言う判断があったからだが、このマイクロスリップは意外と疲れた。
雪のなくなる葱平(ネブカッピラ)から上は、すでに疲れが溜まり、急登を困難なものにした。
それと今夏の「酷暑」はこの山上の楽園でも免れず、その2文字が精神的には重荷になるのだ。


 今回はなんとか歩けたが、思った以上の苦戦の登りで、四時間半くらいで休憩点につく。
お花畑の中の給水点にやっとたどり着いた。汗はぽたぽたと落ちる。冷えた水イッキ飲みで生き返る。
給水ポイントのあたりから頂上小屋がやっと見える。これがくせ者で、急登が続く。
恨めしいくらいの全国的な酷暑さがこたえる。10歩?歩んで息を整える。
「何とかなりそう」と割り切り、花畑でゆっくりと、花の百名山のN o 1の白馬の花たちを観察する。


◇野の花の記

 花は形状だけをカメラに写しとっても、それは花ではない。表情を写さなければならない。
自然保護上から近づけない場合も多いが、花の表情はなるだけ近づいて見なくてはならない。
その花に「元気でやっているかい」とたづねる事だ。

 その花の育ったところから、花の目線で、周りを眺めることも大切である。
歩けない植物なのだから、育った環境(周囲の景色)を理解することが大切だ。

 花の周辺の地面ではなく、空を見ると意外なのは、紺碧の空に湧く白い雲たちの変幻な表情だ。
彼らの生命には、「みるみる間」という時間軸がある。
花たちは背中でも雲を見て、時折ふく風に揺れているのだ。

 

 これらをすべて「心」で写しとれば、「全体知」として、花の履歴書が手に入る。

高山の花はほとんどひと夏の短い命だ。
しかし花の生命には、この国が千島列島に繋がっていた頃の記憶が残っているにちがいない。

 何故そう思うかと言えば、千島桔梗はもちろんウルップ草はすべて千島列島が在所だ。
この花は紫色のかかった深い青色で、和名の「群青色」に限りなく近い。
それは親潮(千島海流)の色なのだと思う。彼女たちは千島では海岸近くの丘にも咲く。
つまりそこから昔見ていた海の色、昔の日の思い出を、その花の色に留めているのだと思う
 寒冷な時代が終わり、千島や、北海道や本州は島となって陸続きではなくなった。
北のヒグマが北海道にしかいないように、本州に残された花はが、山岳の高所にだけ残った。
・・・と思うのは私の勝手だが・・・・

 

 
 ウルップ草や千島キキョウの群青色が、文字で書いてない、ワタシへのメッセージだ

 

     稜線にゆれる みやまきんぽうげ、ウルップ草(下から咲き始める)


        しろうまの  はなのいのちと くらぶれば

          千島の記憶 吾人(われ)に痕跡(あと)なし


◇「野の花の如く」に普遍性はあるのか

 「野の花の如く」という言葉があるが、受ける人の感性で結果の「分析知」は違うはずだ。

しかし日頃なら理屈に合わないと意義の見いだせない吾人にとっては、あがらえない響きだ。

 齢をとって、体力は減っても、登れる間は、少しは苦しくても山に行きたいと思う理由がある。
その大半は、高い山の花たちに出会うことだ。

 多分西行さんのころは「桜」に逢いに行ったのであろう。
幸せなことに平成の吟遊詩人は、夏でも雪の残る峯々をヨロヨロ歩き、
「そこに宇宙のすべてがあるような」小さな花の世界をたづねる事ができる。


 何年か前から気づいたことだが、岩の間に、質素に咲く花から、「おまえは何者か」と
旅人のはずの自分が、誰何(すいか)されているように思うようになった。
それは何となく咎められたようだが、逆に嬉しいのだ。

 言葉で説明するのは難しいが、最近気に入っている「般若の知恵」がキーワードだ。
それが「自分を知りたい」というワタシの潜在意識になっていたからだと思う。
ワタシの得意な短絡をすれば「野の花の教え」が「般若の知恵」なのだ。 


 キリスト教社会の言葉になると福音書では「空を飛ぶ鳥」と並んで、「野の花を見よ」になってしまう。
これはもう「花」の育つ環境が「逆境など」とかは無関係で、「神のみ恵みのプロパガンダ」になる。
「野の花」が「空」とか「無」といった「禅」などの東洋的な解釈と、かなりずれてしまう。


 ところでバルザックの「谷間の百合」になると、「野の花」であっても、百合の評価が変わる。
「ソロモンの栄華」と較べるのが常識になる。(旧制八高の寮歌「伊吹おろし」にも出てくる)
だから「文字で考えをつたえるることは難しい」、これがワタシの結論だ。
 よくわからない人(=ワタシ)が、わかりにくい話をするのは大変なのである(⌒▽⌒)

 脱線からもどると、実は白馬の谷間にも、百合(くるまゆり)は咲いているのだ。

白馬の百合は本当に植物としてはみて判るように、生育条件の悪いところに咲いている。

ワタシは直感したのだが、彼女たちは「見晴らしの良いところ:眺望絶佳」を好むのだ???

証明さえ科学的にできれば、ノーベル賞はワタシのものだ! 再度脱線 (_ _)


 ニュアンスがどうのと言っても、百合にはそもそも責任はないから、
受け止める人間の心の問題ということである。

 

 

 

    その昔  氷河の跡に  くるま百合

        つむぐ生命で   なにを語るや 

◇白馬山荘から蓮華温泉へ 女王さまに逢う 

 白馬山荘にチェックインして、ゆっくりと空身で白馬に登る。
何度来てもすばらしい眺めだ。やはり白馬三山の眺めは圧巻だ。 

 山荘に戻り、剣岳などみながら待望の生ビール。
夕食後に朝日岳の横に入る夕陽をすこし見て、明日の晴天を確信して眠りにつく。 


8/6(土)

 少し早めに食堂に並んで、5時から朝飯。6時には給水(1㍑では足りない)準備をして歩き出す。
360度すべての山がそろって並んで、私たちの出発を見送ってくれる。
(大きな老舗旅館よりスゴイ)

 今日も文字通りの快晴だ。小蓮華を越すあたりの花が、花の山の主らしく、
本当に、高嶺ナデシコなどは、「咲き乱れる」という言葉がもっともふさわしい。

 朝の陽が高くなり、富山側の斜面をも照らすようになる。
花の山の女王さまは、ひっそりと朝日の中で咲いていた。
コマクサに逢えたのは何年ぶりか。


 

 

    こまくさは  太古変わらぬ  薄紅に

       造化のみが 閑かにゆらす      


 白馬大池も上から見ると美しい。携帯食で昼を大池の小屋の庭で済ます。


 ここから蓮華温泉に下る。最初はハイマツで道は岩だらけ、膝をかばいながらさらに下る。
針葉樹の中を汗を流しながら降りる。おかしなことにウグイスがまだ啼いている。
「天狗の庭」に着けばあと1時間半程度の下りで蓮華温泉ロッジに着く。
荷物を置いて、5分ほど離れたお目当ての露天温泉(黄金の湯)に入り、登山の汗を流す。

 驚いたことに、露天温泉のあたりは秋の気配(ナナカマドは葉を赤く染め始めた)。

思うと、「ウグイス」と「紅葉」では花札の箱をひっくり返したようなもので、
思うに、因果律が支配する文字の世界(玄侑宗久さんのうけうり)ではあってはならない現象だ。
視覚と聴覚の世界ではこれは事実なのであって、そこが面白い。


 ともかく、気をつければ季節は静かに歩き出していることに気づく。
もうすこし自然のなかで、吟遊詩人を続けさせていただきたい。


    2016/08/15  自然の神様に感謝して  前嶋 規雄 記


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